津観音の宝物|絵画
藤堂高虎像
藤堂高虎(1556〜1630)は、近江の国犬神郡籐堂村の出身で、初め浅井氏に仕え、ついで信長の甥織田信澄、豊臣秀長、豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原合戦では東軍に属し、その軍功によって伊予国を領する今治城主となったが、慶長13年(1608)伊賀国一円・伊勢国安濃・一志両群にて22万950石を領する大名として津城に移った。戦乱により荒廃した津観音の再興に尽力し、藤堂家の祈願所として庇護されました。 大宝院に伝来する本画像は、藩主藤堂家本や四天王寺本と見分けがつかないほどその像容が酷似しており、遜色のない優品です。
豊臣秀吉像
織田信長の跡を継いで天下統一を成し遂げた豊臣秀吉(1536〜1598)の肖像画。 江戸時代末期に朝廷のトップ絵師であった土佐光孚(とさみつざね)の筆による唐冠・束帯姿。大和絵の本流の技が駆使された佳品です。六大院の9世長尭上人(大宝坊)が秀吉の幼少時の書道の師であった縁から、大宝院は豊臣政権以降、寺領を与えられるなど手厚い保護を受けた。
徳川家康像
衣冠束帯姿の典型的な神像形式の徳川家康(1542〜1616)で、表装にも葵紋が織り込まれています。狩野山楽による筆との古筆了意の極めがあります。豊臣秀吉の時代に与えられた大宝院の寺領は、家康以降、徳川幕府からも代々安堵されました。
邵雍・羿図・松花堂昭乗筆
右幅の邵雍は易に精通した中国北宋時代の学者で、左幅の羿は中国古代の弓の名手である。この作品を描き、自筆の賛を加えた松花堂昭乗は、石清水八幡宮の社僧であった。真言宗の僧侶として、仏事を務めるかたわら、文化的な指導者としても大きな役割を果たしている。
鶉図・住吉具慶筆
二羽の鶉が身を縮めるようにうずくまる姿を描く。周囲には土筆が芽を出し始め、ようやく春になった頃の情景を描いたものと思われる。具慶は、五代将軍綱吉に仕えて幕府御用絵師となり、以後住吉家は代々幕府のお抱え絵師の地位を確保した。